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小笠原貞宗・逃げ上手の若君や史実での活躍は?弓矢の勝負と死因

逃げ上手の若君(小笠原貞宗)

※この記事はプロモーションを含みます。

逃げ上手の若君に登場する小笠原貞宗って誰?

ギョロ目で強烈なインパクトのある狂人キャラ・小笠原貞宗ですが、思いもよらぬ活躍で読者からも人気が高いです。

逃げ上手の若君での小笠原貞宗の活躍や、弓矢の勝負、史実の死因などについてまとめました。

ぜひチェックしてみてください。

小笠原貞宗の逃げ上手の若君や史実での活躍

逃げ上手の若君に登場する小笠原貞宗について解説していきます。

史実の小笠原貞宗プロフィール

小笠原貞宗のプロフィールはこんな感じ(^^♪

名前小笠原貞宗(おがさわらさだむね)
生誕正応5年4月12日(1292年4月30日)
死没正平2年/貞和3年5月26日(1347年7月5日)
改名・別名豊松丸(幼名)→貞宗、正宗
別名:彦五郎
幕府鎌倉幕府から室町幕府
信濃国守護
生涯鎌倉幕府に使えていたが、1331年の元弘の乱で新田義貞に従い、足利尊氏らと後醍醐天皇の討幕運動の鎮圧に加わった
北条貞直に属して楠木正成の赤坂城を攻めた
1333年には信濃国守護を任せられ、船山守護所を設けた
その後も一貫して北朝側の武将として中先代の乱、近江の戦い、金ヶ崎の高t会、青野原の戦いなどで転戦を続けた
1345年には嫡子の政長に守護職および甲斐国原小笠原荘・信濃国伊賀良荘などの主たる所領を譲る
1347年7月5日に京都で死去(享年56歳)

小笠原貞宗は鎌倉時代~室町時代に、はじめ鎌倉幕府に仕え、その後は北朝側に仕えて戦い続けた武将です。

弓矢の名手と言われ、現代にもその名を残しています。

逃げ上手の若君も同じ時代設定なので、敵のなかでは主要と言える人物と言えるでしょう。

逃げ上手の若君に登場する小笠原貞宗とはどんな人物?

小笠原貞宗は逃げ若のキャラ・史実でも、鎌倉滅亡時に足利尊氏に寝返ったことで、反乱の報酬として信濃国守護を命じられた人物です。

優れた視力(ギョロ目)をもっていて、目からの振動で会話ができたり、目からは涙だけではなく胃液も流せたりするという、人間離れした特技も持っていました。(笑)

その視力のおかげもあり、弓の名手と呼ばれていました。

さらに後醍醐天皇からもその腕前を称えられ、現代における弓術の基礎にもなったと言われています。

逃げ上手の若君・時行と小笠原貞宗の弓矢勝負の結果は?

諏訪に派遣されてから、尊氏から下された任務を果たすため、諏訪大社に訪れます。

諏訪大社に北条家の者がいると睨んでおり、探っている状況でした。

そして諏訪頼重から”長寿丸”という偽名を使って匿われていた時行と犬追物の試合を行うことを約束します。

もし長寿丸(時行)が勝てば、諏訪に手を出さないことを条件にした賭け試合に臨むのでした。

一方、この賭けは諏訪を守るための策と言うだけでなく、時行に小笠原貞宗の弓の技術を学ばせるという意図も含まれていたのでした。

諏訪頼重、策士ですね。(笑)

乗馬戦でははじめ長寿丸(時行)を圧倒していましたが、時行側の策にまんまとハマり点差を付けられてしまいます。

焦った小笠原貞宗でしたが、すぐに頭を切り替えて時行の死角に付き、そこから逆転の機会を狙っていました。

一進一退の弓矢勝負!

しかし結局は、長寿丸(時行)が導き出した、逃げながら攻撃する「パルティアン・ショット」を受け、小笠原貞宗は敗退し、時行の勝利となりました。

まだまだ続く!逃げ上手の若君での小笠原貞宗と時行の戦い

小笠原貞宗はしつこい男。(笑)

何度でも時行の前に立ちはだかります。

逃げ上手の若君・弓矢勝負に負けても諦めない小笠原貞宗

犬追物での弓矢勝負に負けて一度は引き下がったものの、後醍醐天皇の一声により、

「諏訪大社を小笠原領にせよ」という綸旨(お達し)が下り再び再登場します。※綸旨(りんじ):天皇からの文書

この綸旨を奪うべく、時行たちは風間玄蕃を仲間に加え、小笠原領に侵入。

しかし小笠原貞宗の家来である、耳の良い市河助房に気づかれてしまいますが、結果として風間玄蕃の活躍で蔵ごと綸旨を燃やすことに成功しました。

その後、小笠原貞宗は綸旨の再発行を待ちますが、後醍醐天皇は足利尊氏の反乱処理で忙しく、「めんどい」の一言で再発行もなくなります。

これにより信濃の領地没収の命令は事実上無効になり、時行たちに一杯食わされた形になりました。

逃げ上手の若君・中先代の乱での小笠原貞宗と時行の鬼ごっこ

小笠原貞宗は、中先代の乱で諏訪大社にいた「長寿丸」が時行であることを知りました。

怒り狂った小笠原貞宗は、単騎で飛び出し、時行の首を狙います。

結果として時行との鬼ごっこでまたもや負けた小笠原貞宗ですが、それはどこか楽しそうで、2年での成長ぶりに感心しているようでした。

落馬した小笠原貞宗に対して時行は、

「行ってきます。天下に挑みに」

と伝え、鎌倉へ向かうのでした。

そんな時行を敵ながらあっぱれと思った貞宗は、

「せいぜい天下を逃げ回れい、北条時行」

「翔ぶを止めるなよ、この儂が射ち落とすその日まで」

と激励し、時行との戦いに終わりを告げました。

史実での小笠原貞宗の死因は?

逃げ上手の若君では現在1338年頃のストーリーとなっており、小笠原貞宗は未だ死んでいません。

史実では、その後も一貫して北朝側の武将として、様々な戦いに繰り出していました。

そして小笠原貞宗の死因としては詳しく書かれていませんが、史実によれば1347年7月5日に京都で死去したそうです。(享年56歳)

すでに1345年には、嫡子の政長に、守護職および甲斐国原小笠原荘・信濃国伊賀良荘などの小笠原氏惣領の主たる所領を譲っていたようなので、自分の寿命を感じていたのかもしれません。

逃げ上手の若君&史実の小笠原貞宗まとめ

逃げ上手の若君&史実の小笠原貞宗についてのまとめです。

名前小笠原貞宗
生誕正応5年4月12日(1292年4月30日)
死没正平2年/貞和3年5月26日(1347年7月5日)
改名・別名豊松丸(幼名)→貞宗、正宗
別名:彦五郎
幕府鎌倉幕府から室町幕府
信濃国守護
生涯鎌倉幕府に使えていたが、1331年の元弘の乱で新田義貞に従い、足利尊氏らと後醍醐天皇の討幕運動の鎮圧に加わった
北条貞直に属して楠木正成の赤坂城を攻めた
1333年には信濃国守護を任せられ、船山守護所を設けた
その後も一貫して北朝側の武将として中先代の乱、近江の戦い、金ヶ崎の高t会、青野原の戦いなどで転戦を続けた
1345年には嫡子の政長に守護職および甲斐国原小笠原荘・信濃国伊賀良荘などの主たる所領を譲る
1347年7月5日に京都で死去(享年56歳)

ポイント

逃げ上手の若君に登場する小笠原貞宗とはギョロ目で視力がよく、弓矢の名手

犬追物での弓矢勝負の結果は時行に「パルティアン・ショット」を受け、小笠原貞宗は逆転負けする

後醍醐天皇からの綸旨を盾に再び再登場するが、時行や玄蕃に蔵ごと綸旨を燃やされてしまう

中先代の乱でも全力の鬼ごっこを繰り広げるが、時行に敗北する

逃げ上手の若君では小笠原貞宗は死んでいない

小笠原貞宗の死因は詳しくは分かっていないが、史実によれば1347年7月に京都で死去している

以上です。

逃げ上手の若君での新情報が入り次第、随時更新していきます。

お楽しみに!

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